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2026年4月26日
恵みから使命へ
エフェソ2:8-10 恵みから使命へ
本文8-10節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
この御言葉には、善行や善さについての一言もありません。
これが善行にとってどのような意味を持つのか、少し混乱するかもしれませんが、この内容は非常に重要です。特にキリスト教における善行に関して、極めて重要です。なぜなら、その直後に続く内容が善行に関連しているからです。この御言葉は、私たちが善行を行うべきという前提条件について、まず語っています。
「あなたがたは……信仰によって救われたのです……」
一般的に、善行の要求は、ほとんどの宗教において救いに関連しています。通常、救いの結果を得るための条件として、善い行いが強調されることがよくあります。言い換えれば、善く生きなければ救われることはできないと考えられています。逆に、善を行わなければ救われることはできないと考えられています。
これは、ほとんどの宗教が教える因果応報の思想と、自力救済の体系です。自分がまず善を積んでこそ、後に救いを得られると考えます。仏教における「業報」とは、善い業を積んでこそ、来世で良い場所に生まれ変わったり、解脱に至ることができるという原理です。しかし、今日の聖書の箇所であるエペソ書の御言葉は、その構造を完全に覆しています。私が研究し、知っている範囲内では、キリスト教以外にこのように構造が変わっている例はありません。神が私たちに求めておられる善行は、救いを得るための条件ではありません。聖書はそれを明確に語っており、キリスト教はその事実を極めて重要な真理として掲げています。
キリスト教は、「神がまず私たちに救いを与えてくださった」という点から始まります。「救われた(完了形)」に使われているギリシャ語は完了形です。すでに救われているという意味です。
これがどれほど大きな恵みなのか理解しにくいのであれば、この言葉を別の言葉でこう表現することもできます。「神が私たちを
神の子としてくださった」という言葉として解釈できるのです。
主の恵みを忘れず、その恵みによって与えれた使命を充実に
行う信仰者になりましょう。
